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南海には20両割り当てられた。この大型四扉車は南海本線の多客輸送に大活躍したが、性能の低さ故にやがて支線に転出した。1973年の昇圧対応で元々1500V仕様のモーターは他の車両に転用された。この大型四扉車は現在の南海の通勤車両の原型となった。
ドアコックはなかったんではなく、あったけどわかりにくい場所にあったが正しいですね
103系3000番台は103系の中でも異端中の異端ですね「なんちゃって103系」から本物の「103系」になったとはいえ、台枠の厚みの違いで車体の縦寸法が長かったり、モハ103のパンタグラフ搭載位置がオリジナルとは逆だったり色々とカオスな車両でした台車の位置もオリジナルの103系より車体中央寄りでジョイント音の間隔も微妙に違ってました
山電の2700形には小学生の時に乗りました。懐かしいですね。吊り掛けの音は今でも思い出せますね。
名鉄の項。3700系と3800系をごっちゃにしていませんか?モハ63の方は3700系ですぐに東武や小田急に行きましたが、3800系は運輸省規格形で全く別設計です。17m車のため枇杷島は難なく通れました。
割り当てじゃなくて自社発注車なんですけど、サハ78形をベースとした客車が三池炭鉱で走ってました。
初めて拝見させて頂きました、私は関西在住の者ですが阪急電車には初代1300系が嵐山線、今津線、箕面線、伊丹線、甲陽園線に走ってましたよ。
八高線電化で3000番台を付けた103系、その「3000番台」だけ205系、209系と今の車両に受け継がれてるのはアコモデーション改造車唯一の名残。
72系920番代として、仙石線を走ってたんですよね?
東武に割り当てられた63系をアルナ工機の勧めで、ステンレス車体に更新する案があったそうです。もし実現していたら、その後新性能化され、今でも残っていたかもしれませんね。
7800系(運輸省設計思想にもとづく東武独自設計)製造にアルナ工機も参加しているのでご提案されたのでしょうか。今頃、副都心線走っていたらもっと興味を引く動画を作れますね。
実家の近くの東武鉄道の7300系でしょうね。長めの吊革を左右に揺らしながら活躍していました。
地元沿線が東武線という事もあり 幼少期には 73 78系にはよく乗ってました。準急に割り当てられた時は 吊り掛け音がカッコ良かったですね。先頭車両同士の連結面は 運転席側は扉で入れませんでしたが 反対側は何故か扉が無かった為 そこに入って乗務員扉の窓を開け顔を出してました。今の時代では考えられない事ですがね。当時の準急や行先のサボが未だに部屋の壁に飾ってあります。
8000系って73系置き換え以外の車両置き換えをしていないんですよね。考えてみたら。
西武鉄道にも旧401系なる車両が有り、戦災復旧車の63系を3両譲り受け、1両を西武所沢工場にて新製し、2両2編成が活躍しました。ただ当時の西武鉄道は3扉車が主流で4扉車の使い難さも相まって早期に廃車になったようです。
初代401系導入以前に、西武にも運輸省割り当ての63系10編成20両が、一旦は持ち込まれたとの記録が有ります。ただ63系割当車両、若しくは運輸省の規格に沿った新造車両を導入した当時の鉄道会社は、代わりに同数の車両を地方の私鉄に譲らなければならないとの条件が有りました。当時の西武の堤康次郎社長はこれに反発して、割り当ての63系全てを未使用のまま運輸省に返却してしまいました。代わって国鉄から戦災車両や古い木造車両を大量購入。其れ等を西武所沢工場で整備の上投入して、戦後の利用者急増に対応していました。
旧101系に置き換えられたんでしたっけ?でも他の赤電も新101系に置き換えられてしまいましたね。
西武は戦前の国鉄型走行部品を長く使っていましたね。
阪和線に接する機会が多く、3歳児の頃は社型電車と映ったスナップがあります。72型の記憶としては窓の桟が多く、絵に描きにくく外から見るのは嫌いだったですね。でも室内はポールで回ることが出来、窓の開け方はバラエティが多くて楽しめました。おおむね半分が4ドア残りが3ドアの混成でした。
他の方も投稿していますが南海にも63系が居ましたよ導入にあたってホームを削っています 南海では初めての4ドアだったので今日まで車体幅、ドアの数で影響が残っています
18:27クモヤ90は郵便荷物車ではなく次のクモヤ440なんかと同じ牽引車。画像の車両は後にクモハ63に復元されて名古屋のリニア鉄道館で展示中。
小学生の頃、他の小田急通勤車と外観が全く異なる1800形を見て違和感を持ちました。相鉄3050形も6000形にそっくりの外観なのに吊り掛け駆動と、後年それぞれの車両の出自を知り先人達の敗戦からの復興への熱意に敬意を抱くと共に戦争に負けるということはこういうことなのだなと思いました。
相鉄3000系はVVVF&冷房改造されて生き残りましたね。旧6000全滅後も生き残りましたが、相模大塚の脱線事故で復旧されず廃車に。
いいねおねがいしました👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍
惜しいのは東武7800系か国鉄本家72系新造車とは従兄弟位の通勤電車だが
自分の世代だと小さい時は小田急旧5000形、5200形がギリギリ現役でした。もう小田急顔より3000形、現行4000形などそうでない顔の方が多数派でステンレス車も増えてきた時代…
特に戦後の物資のない時代に、なんとかかんとか材料等をかき集めて造った63系~72系は、戦前製の車両に交じって昭和40年代頃まであちこちの国鉄線等で走っていました。なので、不備な部分があったのも仕方ありませんでした。もちろん釣り掛け車でしたが、私鉄などではカルダン車に改造されたものもあり、同じ車体なのに、音が違うなんていうものもありました。重量があって頑丈な車体ではありました。クモユニ74やクモ二83等は本系列から改造され、車体と制御装置は一新されて、新性能車と協調運転ができました。仙石線の72系アコモ改造車から103系化されたものには、八高線、川越線用以外にも、青梅線の車両不足補充用のものもありました。クモ二83から改造された、宇野線のクモハ84もそうです。JRになってまで改造され続けました。この系列の関連車両でVVVF化されたものもあったのには驚きです。何かといろいろ改造されまくり、使いまわされたのが、この系列の最大の特徴だったのかもしれません。
72系から荷物列車になってさらに旅客に転換された宇野線の電車は荷物列車の動画でも取り扱いました。私が72系を見たのは京阪神緩行線で最後にはオレンジ色の片町線でした。
@@heitetsu4649 さん私も、片町線のオレンジの72系には興味がありました。阪和線の方はスカイブルーでしたね。どれもいろんなところが違っていて個性的でしたが、幾度も改造されてそうなっていったようです。もともと、東京の中心に新型電車が投入されて、72系は徐々に東京郊外に押し出され、南武線や青梅線等で使われていました(茶色)が、そこから大阪近郊に転属していったものも多かったようです。そこで終わると思いきや、さらに、可部線や富山港線、仙石線などに転属してゆき、最後はボロボロになるまで使われました。ここまで使われた車両も珍しかったような気がします。なお、戦前製の車両も、最後は飯田線などで80系電車とともに老後を送っていました(’80年頃。)。私も乗りに行きましたが、釣り掛け音を響かせ、車内が木造ニス塗の車両には大感激でした。
自分の場合は確か中学生の1976年頃の冬休みに地元の国鉄南武線73系の登戸から小田急1800系の急行で埼玉へ転校した友達に会いに行くのに新宿から国鉄山手線103系→池袋から東武線の旧型車両乗り継いだ記憶ありますね。今思えば貴重な体験したと思います❗🤩
東武の7300形、長い間使われました。寄居~池袋まで乗りましたが、非常に寒く、揺れた覚えがあります。名鉄の3800形、長い間酷使しましたね。京阪の1000形は、その生い立ちからして、明治から存在していますね。川越線のは、よくお客さんをダマしましたね。
山陽700形の(2700ではない)鋼体更新車は、幼少時にカラーブックスで見ましたよ。3000系を先取りしたかのような不思議な斬新さを感じましたね。
鶴見線のそれは廃車疎開配置で橋本に留置された時期もあります。
63系は国鉄初の4ドア車その構造は現代でも通用し、ホームドアもそれに合わせたものに
やはり東武7300系と7800系は神がかってカッコイイなぁ〜、あと他の会社の吊り掛け車両もカッコイイんだよなぁ〜
7300や7800も一度乗ってみたったです
ガキの頃浅草住んでたからほぼ毎日乗ってたよ
私鉄で最後まで吊り掛け駆動が残ったのは名鉄だしな
南海にも渡ったはずですが?
JR東日本初期車両である209系は62/63系•72/73系電車の顔面設計を参考に衝撃吸収を組み込んだ形状になっており、その結果平妻顔が製造コスト削減と、事故損傷時にスワッピング交換が可能になりました因みに209系も横浜〜桜木町間でパンタグラフが原因による故障がありました
冬の1800形は、暖かく良かったです。
東武7300系と7800系は、微妙にモーター音が違ったんだよなぁ…。懐かしい!!小〜中学1年まで、よく見られる光景だった。たま〜に乗ったけどね!!あの床が、まさに木の板、カタカタ今にも止まりそうな扇風機等。今の電車には、ない雰囲気が堪らなかったよ!!
抵抗制御方式はパーツの互換性があるからその気になれば長く使えたのだろうね。今の半導体を多用した電車はそうはいかない。
いや、吊り掛け式とカルダン式は抵抗制御でも相当違うぞ。撓み板が吊り掛け式にはないけど、カルダン式は撓み板ありきで作らないといけない。だから車体以外の流用はほぼできない。
今回も興味深く、動画を拝見させて頂きました。 私奴と戦時設計の電車、63系(73系)の出会いは、「鶴見線」でした。 後日、交通博物館の図書室にて、史料を閲覧してこの車輌の来歴を知りました。・・・ウチの方は、割り当てがなかったとのことです。矢張り、特殊軌間が問題だったのでしょうか?
あと南海でも国鉄63系の割り当てがあって、こちらは南海1501形となり、1968年まで活躍していました。また、使われていたMT40モーターは、架線電圧昇圧対応改造工事の際に転用されて昇圧後も使用されるぐらい使い勝手がよかったようです。ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B5%B71501%E5%BD%A2%E9%9B%BB%E8%BB%8A
72系971の話で「テセウスの船」みたいな事が出るとは思わなかったw
ここまで正確に全て紹介している動画があまりないので素晴らしいと思います。(間違ってはないんですが、意外と説明不足の動画が多いので…73系には大昔の客車のように貫通扉が無かった訳では無く、貫通扉はあったものの、手前開きで人が押し掛けた事により扉が開かず移動出来ない状況になったと言うことですなので桜木町事故以降の製造車両はスライド式の横開きに変わったと言う訳です)
山陽のやつ飾磨車庫に放置されてましたねえ子供のころあの電車いったい何者なのか不思議だった
編集、お疲れ様です。ただ、今回色々とデータミスがあるようです。東武7800形製造、1961年まで。8000形製造、1963年より。名鉄3800形は63系とは関係なく、63系ベースで運用が困難だった3700形(初代)の代替も含め、戦後の車両不足対策の一環で63系車両の入線できない私鉄の車両向けに運輸省からの共通仕様だった「運輸省規格車両」の一種であり、18m2扉の車体でした。相鉄3050形、国鉄103系3000番台共に、63系からの部品は車体の台枠程度でした。かなり忙しい中で制作されたようですが、しっかりした情報を元に動画を作る平成鉄郎さんにしては珍しくミスが多いかなと感じましたので失礼かとおもいますが、指摘した次第です。
ありがとうございます。失礼いたしました。
確かに私も103-3000はさすがに無理があると思いました。名鉄の3800系は割当の名鉄の車両を読み解くと割当のように出ていました。もう少し読み解けばよかったですね。失礼いたしました
@@heitetsu4649 さんいえいえ、資料が少なく、特定の情報に頼らざるを得ない時代の事は仕方ないと思います……個人的にはこの戦後直後の「運輸省規格車両」を取り上げても面白いと思います。関西の大手私鉄の車両でなかなか面白い車両が色々ありますね。関西だけでも1本動画出来ると思います。
東武鉄道って、高性能車1720系デラックスロマンスカーを新製した(1960年)翌年に半鋼製吊りかけ車の7800系を新製しているところに、看板列車や地下鉄直通には思い切った挑戦をするが、自社線内用に関しては堅実性を重んじて、他社では既に廃れた技術に固執していたところですね。
63系の車両の一部には内部に紙が使われていたという話も・・・・・・
クモハ84の晩年は宇野線末端区間(茶屋町〜宇野)の線内運用で、朝晩のみ岡山まで乗り入れてましたね。😅吊り掛け駆動の爆走が懐かしく感じます。
小田急デハ1801が群馬で保存されてますね。
拝見しました。名鉄の63形割り当て車は『3700系』ですよ。動画の『3800系』は 63形とは縁もゆかりもない全く別の電車です。ネタにも『3700系』と書いといたんですが そこだけは惜しかったです。あとは 寄居駅で並んだ秩鉄デハ800形と東武7300系は 全金属製の秩鉄よりも いかつい半鋼製車の東武の方が 実は車体は新しい事も入れるとより面白かったと思います。全体的には 今回も良く出来ていましたね。上手く形にしていただきありがとうございます🙇
名鉄の件は他の方からもご指摘があり概要欄にお詫びを出しております。とりりさんが小田急の63系が唯一地方譲渡とかかれていましたのでおかしいなあと思っていました。失礼いたしました。国電の丸い通気口がグローブ型ベンチレーターという名前初めて知りました。尼崎にいたころ夏103が来た時、あの丸っこいのだけは避けたかったので(クーラー車を狙っていました)明確に覚えています。
@@heitetsu4649 さんあと モハ72 970で『低圧電源で車内蛍光灯が暗く』とありましたが ネタの『低圧電源』とは 動力用の高圧の1500Vに対しての制御機器や室内灯の為の100V用電源の事で電圧が低くて暗いという意味ではありません。970は 低圧電源が直流電源(直流電動発電機)の為に蛍光灯が直流点灯の短い20Wしか使えなかったという意味です。971以降はこの低圧電源が交流化(交流MG)されて40W蛍光灯の使用が可能となりました。あと桜木町事件時の63形には『非常コック』も『貫通路』もあるにはありましたが イタズラ防止の為に設置箇所を明記していなかった事や 貫通扉が引き戸ではなく内開きの開き戸で 逃げようとする人達の圧で開けられなかった事(ついでに貫通幌もなかった)これらが被害を大きくしたと言われています。動画の最後に出て来た交流牽引車クモヤ740の2は63形(モハ63 596)から編入されたモハ72 133の車体の両側に新しく造った運転台を後付けし 九州で 2008年まで活躍した 正真正銘車体も下回りもオリジナルの『ロクサン形』でした。この次の動画が出来る迄に次の企画を纏めておきます。
@@heitetsu4649 愛知県のもので、昭和40年代から名鉄利用者ですが、「運輸省割当」と「運輸省規格型」を混同されています。前者がロクサンで名鉄で3700系を名乗り、後者が3800系になります。3800 系は名鉄のツリカケの旧型車AL車の中で大所帯になり、動画の解説通り富山地鉄、系列の豊鉄へ譲渡されたものもあれば、普通運転台の「ニセパノラマカー」と揶揄されたツリカケ冷房車7300系に更新されたものもあります。この系式もパノラマスーパー増備で豊鉄へ譲渡、廃車となりました。投稿でも余談だらけになりましたが、3700番台はロクサン転出後は、「大ドス」と言われた3300系(これも後に車体は豊鉄へ譲渡)をはじめとする車体更新車HL車の系式になりました。(3300 系、3700系は現在VVVFインバーター通勤車の系式)
戦時電車と言っても103-3000…72系970台の種車となった72系は戦時設計から脱却した時代のモノなのでちょっと違うかな…と思います相鉄3000こそ化け物でしょうねあれも10両中1両は無関係の新造車、それ以外も一部は63系出自ではない旧型国電が含まれていましたとはいえ台枠は廃車時まで流用されていたようなので(但し全車では無いようですが)63系のVVVF車と言う概念は正しいですね
2005年ってもうすぐ20年前になるんだよなぁ……もう最近と言えない年代になっちゃってる……
俺にはまだ最近とは言えるよ2005なし生まれだしね
こっち(京阪)に戦前の電車(二代目1000系、昭和13年デビュー)がまず、上部を総替えして(700系)、次に下部をカルダン化(三代目1000系)してまだ生き残ってるw廃車は近そうではあるけどね^^;でも、63系も結局は資材不足だったからこそ、逆にまじめに設計したんだろうね。あるもので何とかするのも我々日本人のお得意な部分だしね^^;
南海割り当て車が抜けていますよ。更に62系の一部は「旧63系」からの改造ですが、73系970番台は「72系」として新造されたものなので「63系」とは言えません。
茶色いアレ 昭和38年 1963年から青梅線 通学で使っていました。 床は木製で オイルワックス塗りで 雨の日には 滑った記憶も、、、ドアとドアの間には 補強の為かパイプが立っていました。満員電車では人混みで 押し潰されそうになったり、子供がいるから押すなよとか当時のサラリーマンや大学生が 守ってくれました。63系 だったのか? 72系 だったのか・・・ クモハ72 という 表記は覚えています。立川から国立は オレンジ色の 101系? 友達は 青梅線を使っている通学組を茶色のオンボロ電車! と からかっていました。東福生~拝島 間は 八高線 キハ17 キハ20 は覚えています。煙草臭い車内でした。非電化で まだ蒸気機関車も走っていました。他のコメント 皆さん お詳しいですね。本からの 頭 知識なのでしょうが(失礼)懐かしい動画ありがとうございます。登録させて頂きました。 過去動画も見ますね!
ありがとうございます。昭和38年は72系の末期ですね。油ふきの床懐かしいですね。私は関西にいたので1970年頃京阪神緩行線でチョコレート色の72系によく乗りました。新型101系が中央線にデビューしたばかりですね。
東武伊勢崎線沿線で乗っていました。床は木造で油が引いてあり、独特の色と臭いがしましたね… 皆『ボロ電』と呼んでいました。冷房車導入後も結構な数が走っていて、夏は暑いし油の臭いも耐えられないので、3本見送り冷房車に乗ることもありました。ボロ電が来るとガッカリしたものです😢
103系3000代、テセウスの船ならぬテセウスの電車で草
東武鉄道株式会社7800系は164両製造されましたが、踏切事故の為に7808ー808の2両が廃車解体されましたので実際に新5000系に更新されたのは162両でした。
「鉄道ピクトリアル」誌の初期の掲載記事を再録している、「アーカーブセレクション37 63・73形電車の時代1950〜1970」のなかには、桜木町事件に関しての記事の再録が何点か収録されています。なかでも、たまたま事故車両に乗り合わせていて運良く助かった中国人船長の話が図解入りで載っていて、事故直前の車内の様子の見取り図や、同じ車両の運転室側にG.I.が何人か乗っていて最初に感電して倒れた話、乗客の叫び声が一切聞こえなかったことや、溶接のときの激しい熱風のようなものが襲ってきた話、この方は運転室から2枚めの山側のドア辺りにおられたそうで、反対側の窓から逃げたとか、事故当時の車内の生々しい様子が載っていますよ。ご参考に。
ありがとうございます。あの状況で生き残ったらすごく運が良かったですね。絶縁が全く施されていないので架線が引っかかると誰か感電される人がいるのですがやっぱりそうですね。非常用ドアコックを取り付けて非常時に出られたことが三河島事故につながるとはなんともやるせないですね
@@heitetsu4649 さま。火災で窓が破損したのが災いしたんでしょうね。それでも頭から落下して5・6分は動けなかったそうです。その後しばらくは黒い痰が出て、左顔面やけどの他につり革を持たれていた左手のやけどがひどくて入院生活が7週間に及び、手の方は大腿部からの皮膚移植をうけて完治して帰国されるまでに、4月の事故から6月中旬ごろまでかかったそうですよ。それから、話の中に「頭の上からガス溶接の炎を吹き付けられたような」というのと「非常に刺激のある形容のできない臭気のある煙」というのがあって、これが非常に気になります。
滋賀県のローカル線こと近江鉄道の「220系」は、西武鉄道の旧性能電車を大改造した車両ですが令和の今でも現役です(機関車用途として1編成のみ)。
埼京線が開業して川越以北の103.3000番代に乗った事が有るが車両は独特でした。仙石線時代に乗ってみたかったです。
103の顔してつりかけ式の音だす。乗りたかったですね
103系3000番台にはちょうど埼京線開業&川越線電化の時期に通学の為に使っていた。確かに車体は新しいが台枠がお古のままだったので、乗降時に若干腰高感があった。(気になるレベルではなかったけれど)
戦時車両で最も有名なのはD52かな?御殿場線の山北駅にまだ有ります。でも機関車最強だった。東海道はそもそも国府津と沼津を結んでいて、熱海は通っていなかった。丹那トンネルが作れなかったから。
朝ラッシュの小田急1800形8両(2両×4)がありました。
部品だけなら近江も。まだ緩かった頃、工場に行くと『昭和15年大宮工場』なんて書いてある部品が、、、転がってるどころか堂々使ってたり。
後半映った103系模型の行先表示がいかにもやっつけで草
ははは、模型はどうも苦手な領域ですね。やっつけです。プリンターで印字したものをそのまま貼り付けました。
これなんで13:30の国鉄のところから声とキャラが変わるのですか??めちゃ面白いです
初めて投稿させて貰います。関東と関西を比較するならば、相鉄に対する鉄道会社は、神戸電鉄❗と申し上げられてますが、寧ろ、山陽電鉄?かなぁ、と私は思えて成らない‼️。何故ならば、山陽~阪神直通は、関東ならば、今回のダイヤガラスより登場した東急~相鉄しいては、地下鉄🚇を介して、東武等、まあ、阪神は確かに、京急に似ていますが。かつては、山陽~阪急も有りましたね。今は、阪急三宮→阪急神戸三宮かな⁉️。関東、関西を比較するのは、鉄道ファンとしては非常に魅力的です。しかし、あくまでも地理的に正反対の場所なので、類似しているのはある意味、不思議ですよね🎵。大概は、相違してて当たり前何ですがね。😮
ハート❤️マーク!✌️、感謝します。確かに、関西と関東の私鉄は、血管の如く、張り巡らされているので、類似は意外と、自然?、まあ、人工的何であれですが、可笑しくはないのかもデスね。最終的には、鉄道会社の方々は資金は掛かりますが、鉄道利用者のメリットに成る事が嬉しい😃⤴️デスね🎵。
追伸しますが、東海地方も私鉄→名鉄、近鉄、は少ないが、名鉄がかなりの路線を張り巡らしていて、確か、私鉄では近鉄に次ぐ路線距離を有し、方や関東の東武よりも有るのではないでしたかな?⁉️。東海地方も魅力的ではありますな🎵。まあ、東海地方はJRが少なすぎ❗かなぁ⁉️。関東、関西はJRも血管程ではないにせよ、多いですよね🎵。いずれにせよ、鉄道利用者並びにファンとしては、直通運転は非常に有難い‼️のは、事実デスね🎵。
山陽700形の廃棄された車体は、東二見車庫の倉庫として長い間つかわれていました。旧車体も更新車体もです。白色の強いライトグリーン系の工場のトタン壁みたいな色に塗られてましたよ。むかし見学会に行ったときに、たくさんあったので写真に収めて帰ってきました。
東二見駅は興味がありましたがなかなか行けませんでした。阪神大石駅によく用事で行った時、東二見行きの普通が時々止まっていました。ほとんどは姫路行き特急です。車庫なら戦時中の電車の宝庫ですね
63系でも72系でもええわ(^^)。私も幼少時から高校生くらい迄、国鉄でも山陽電鉄でも乗りました。ノスタルジーは感じないですね。とにかくボロかった。この電車が来ると、ガッカリしたもんです。特に須磨浦公園以東は阪急、阪神のピカピカで涼しいエアコン装備が入線してましたからね。旧国鉄(省線)は開けにくい3段の窓ですよ。エアコンも無く、窓を全開にするには、コツがあった(爆笑)。私はこの時に4扉20m車が嫌いになりました(笑)。
昭和48年の秋ダイヤ改正でしたか、近鉄橿原線を中心に余生を送っていた600系終焉…でもなかった~てか、騙された~(笑)そもそも近鉄600とは戦前戦中の大軌奈良線木造車両を外盤を鉄板(嘘でしょ?)ってくらいに木造車両濃厚な車両でしたが内緒の話し、中間運転台に入っていた1両だけが、出発合図や次駅停車合図等に今でも使われている所謂「チンベル」が小学生の私でも操作出来、通常は停車合図を行わないのを知っていた私は有ろう事か運転手に次駅停車の合図、月日としては当該車両に遭遇する事態が珍しく、でも2度ばかり運転手に次駅停車合図を送り帰って来た時の嬉しさ、最高…と言いたい処ですが、当時は今の8400系同様に西大寺車庫から田原本線運用の400系の一部が「西大寺⇔西田原本」で不定期運用ながら何とあの田原本連絡線を乗車出来る以上に、何と400系は2両+2両の4連で、運次第ですが中間乗務員室に入れライトの点灯…加えて、車掌殿に見付かり退室を強制された際にタイフォンのペダルを踏んでしまい、現在でも奈良線8800径以前の「ポワ~ン」を鳴らしてしまった事、鉄オタとしては許されない行為でしたが何分、未だ善悪が判断出来なかった年代でしたので、ご容赦賜りたく存じますm(_ _)m長々とコメントしていると当チャンネルの「カレチ」から削除され兼ねませんので、この事は「ご内密」でお願い致します(爆)あっ、600系終焉の件、まだ書いてませんでしたが、主電動機等をほぼ当時の8400系車体に乗せたのが「920系」です。平成を迎える直前に10100系旧ビスタカーの主電動機に換装、冷房化も同時に図られ先頭の行き先表示器と電連も新設され奈良線系統からは一部の臨時を除き「行き先表示板」が廃止された瞬間だった様な記憶が有りますが、直後に1010系に改番され全て伊勢中川のデルタ線で方転されて、名古屋線所属へとなりました。な~んとなく本題に似てませんか?内緒のついでなのですが、奈良線の「奈良⇔上本町(難波)」で西大寺⇔鶴橋がノンストップの無料特許で結ばれていた時、鹿のヘッドマークと言うかサボ的に扱われているヘッドサイン、私の3年下の卒業生の家の押し入れに何枚か「上本町⇔奈良」のヘッドサインが今も眠っています~酔っ払って上本町の表示板入れから勝手に…それも従犯やないか~い!!
南海1501形が抜けてますよ
ついでに、九州の三井三池炭鉱が社員輸送用に自社製造した63形似の客車もありましたね。
関西地区から上京して東武東上線沿線に居住。上品な阪急6000系6300系から古武士然の東武7800系に唖然😲😲
どちらもアルナ(ナニワ)工機製や。
未だに旧型電車みたいな塗装ですからね
小生、中学時代🙄陸上部でした社会人になり市民運動会で(コロナ前の15年位前)100M 全力疾走で足パンパンで2〜3日ビッコで歩いてました🤣🐶チーズ「毎日の積み重ねと年齢を考えるでやんすぅ〜」
@@psychedelicraspberry517 送信先間違えました🙇
次は京急ネタを企画しています。もう出来上がってはいますが その前にひとつ閃いたので書き記しておきます。『港町横浜と神戸 鉄道の共通点もいっぱい』東の横浜 西の神戸 どちらも港町で東京や大阪とはまた違うおしゃれな街 中華街や異人館といった異国情緒も味わえ プロサッカーリーグ(かつてはプロ野球も)の本拠地でもあり 街が舞台のご当地ソングもある両市は実は鉄道の共通点も多い。①鉄道開通が ほぼ同じ時期横浜 1872年 日本初神戸 1874年 日本で2番目しかもどちらも『東海道本線』②かつては埠頭への貨物線があった横浜 山下埠頭線神戸 神戸臨港線 兵庫臨港線③JRに 工場地帯への通勤路線があり 日中は極端に列車本数が少ないか全く来ない。横浜 鶴見線(安善駅から先は川崎市だが)神戸 和田岬線④車両メーカーがある横浜 総合車両製作所神戸 川崎重工業⑤かつてはスカイブルーの103系が 2つ隣の県(府)から各駅停車で来ていた⑥JRのライバル私鉄が複数あり 片方は海沿いの下町を高速で突っ走り もう片方はブランドイメージのある路線横浜 京急&東横線(一応田園都市線も)神戸 阪神本線&阪急神戸線⑦かつては市電があった⑧今は地下鉄がある⑨新交通システムもある⑩市内に新幹線駅があり 今ではすべての列車が停まるようになった⑩①名物駅弁がある横浜 崎陽軒のシウマイ弁当神戸 ひっぱりだこ飯を始めとする淡路屋さんのお弁当⑩②『〇〇町駅』『〇〇台駅』や『公園』の付く駅と駅名にカタカナが入る駅が多い市域が広く 新路線・新駅開業が多いからこそ。そしてどちらにも『大倉山駅』がある。⑩③商業施設併設の私鉄駅がある横浜 相鉄ジョイナス神戸 阪神神戸三宮駅ビル(かつては阪急三ノ宮駅ビルも)他にも昔だったら市内から『準大手私鉄』が出ていた。というのもありますね。神戸のあれこれに関しては 関西ご出身の鐵郎さんの方がお詳しいと思いますので 今回は大まかな項目だけ記しました。これまた一般ウケはしなくても 常連さんには喜んでいただけると思います。
了解致しました。ありがとうございます。作ってみます。
2件別の視聴者様のリクエストがあるので3件目に制作いたします。戦時車両ヒットしてなりよりです。ありがとうございました
@@heitetsu4649 さんあとひとつ忘れてました😳❗どちらも街の名の付いた路線がある。JR横浜線 阪急神戸線(愛称ならJR神戸線も)よろしくお願い致します🙇しかし こんなに観てもらえるとは私も思いませんでした。何が当たるのか本当にわからんものですが 有り難いですね。上手く纏められた 賜物でしょう。
ありがとうございます。よかったです
@@heitetsu4649 さんまだあった。『ロープウェイ』がある
やっぱこう考えると国鉄は車体更新車をほぼ作らず、115系・103系で72系の大半を置き換えてしまおうと考えたんでしょうね。カルダン駆動が優秀な事は、東海道新幹線0系新幹線車両で証明済みだったので、今更吊り掛け式を延命したところで何にもならないことを知ってて、これならカルダン駆動車を作った方が早いという事でカルダン車を大量製造し吊り掛け車は淘汰の道に進んで行ったのでしょう。
相鉄3000系は脱線事故起きなければE231系ベースの10000系に置き換わる感じだっただろうな…2002年登場だからあと4年…
名古屋鉄道館→リニア鉄道館
ちなみに、火災発生の原因は高圧電流が直接車体に流れたためで、絶縁に不備があったわけではない当時の規格では十分条件を満たす程度の対策はされていたが、この前年に発生した80系電車試験車両の火災事故を見れば、原因は可燃性の塗料の使用にあったことが分かりますな
先頭車運転室辺りの握り棒あたりにいた客が急に倒れたという乗客の話がありますね。ショート音以外に人の叫び声等も聞こえなかったという話も(電気車の科学1951年8月号)遠距離にあるき電設備の高速度遮断器の動作が遅れたのも原因の一つと記録されていますね(電気車の科学1951年6月号)
名鉄新旧3500系が揃うっていう自体がおきたw
17:14 「まるで妖怪人間が人間に…」の比喩は草。。。
平成鐵郎様コメントご無沙汰してます。個人的事情により3月頃までコメント出来ない(というか動画自体見に来れない)かもしれません(たまに単発的にコメントするかも)忘れてはいませんのでよろしくです
ご無沙汰しております。承知いたしました。ご連絡いただきありがとうございます。ご機会があればぜひ、お願いいたします
103系ですね
63系の一部には内装に紙が使われていたという話も・・・・・・
昭和50年代の車両はまだまだ現役もあり、長寿になると言う感じがする。地元の地下鉄もs56開業時からの車両がまだ走ってる。あとから来た国鉄103-1500の方が先にお役御免になりました
何でもかんでもカバーかけてる現在の車両に見慣れると剥き出しカバー無しの戦時車両がお洒落に見えて逆に新鮮で良い。令和の63系を作ろうよ。
可部線や福塩線のは、違ったのかなあ。😅
72系なのでそうですよ。72系の最初に写っている黄緑の電車は可部線の横川駅です
@@heitetsu4649 片町線や阪和線、大糸線も、そうだったきがします。懐かしいですね。^^;
西武と相鉄はわざわざ新製もしたね。
面白すぎ鉄道ビジネスカジュアル最高
南海には20両割り当てられた。この大型四扉車は南海本線の多客輸送に大活躍したが、性能の低さ故にやがて支線に転出した。1973年の昇圧対応で元々1500V仕様のモーターは他の車両に転用された。この大型四扉車は現在の南海の通勤車両の原型となった。
ドアコックはなかったんではなく、あったけどわかりにくい場所にあったが正しいですね
103系3000番台は103系の中でも異端中の異端ですね
「なんちゃって103系」から本物の「103系」になったとはいえ、台枠の厚みの違いで車体の縦寸法が長かったり、モハ103のパンタグラフ搭載位置がオリジナルとは逆だったり色々とカオスな車両でした
台車の位置もオリジナルの103系より車体中央寄りでジョイント音の間隔も微妙に違ってました
山電の2700形には小学生の時に乗りました。懐かしいですね。吊り掛けの音は今でも思い出せますね。
名鉄の項。3700系と3800系をごっちゃにしていませんか?
モハ63の方は3700系ですぐに東武や小田急に行きましたが、3800系は運輸省規格形で全く別設計です。17m車のため枇杷島は難なく通れました。
割り当てじゃなくて自社発注車なんですけど、サハ78形をベースとした客車が三池炭鉱で走ってました。
初めて拝見させて頂きました、私は関西在住の者ですが阪急電車には初代1300系が嵐山線、今津線、箕面線、伊丹線、甲陽園線に走ってましたよ。
八高線電化で3000番台を付けた103系、その「3000番台」だけ205系、209系と今の車両に受け継がれてるのはアコモデーション改造車唯一の名残。
72系920番代として、仙石線を走ってたんですよね?
東武に割り当てられた63系をアルナ工機の勧めで、
ステンレス車体に更新する案があったそうです。
もし実現していたら、その後新性能化され、今でも残っていたかもしれませんね。
7800系(運輸省設計思想にもとづく東武独自設計)製造にアルナ工機も参加しているのでご提案されたのでしょうか。今頃、副都心線走っていたらもっと興味を引く動画を作れますね。
実家の近くの東武鉄道の7300系でしょうね。
長めの吊革を左右に揺らしながら活躍していました。
地元沿線が東武線という事もあり 幼少期には 73 78系にはよく乗ってました。
準急に割り当てられた時は 吊り掛け音がカッコ良かったですね。
先頭車両同士の連結面は 運転席側は扉で入れませんでしたが 反対側は何故か扉が無かった為 そこに入って乗務員扉の窓を開け顔を出してました。
今の時代では考えられない事ですがね。
当時の準急や行先のサボが未だに部屋の壁に飾ってあります。
8000系って73系置き換え以外の車両置き換えをしていないんですよね。考えてみたら。
西武鉄道にも旧401系なる車両が有り、戦災復旧車の63系を3両譲り受け、1両を西武所沢工場にて新製し、2両2編成が活躍しました。
ただ当時の西武鉄道は3扉車が主流で4扉車の使い難さも相まって早期に廃車になったようです。
初代401系導入以前に、西武にも運輸省割り当ての63系10編成20両が、一旦は持ち込まれたとの記録が有ります。
ただ63系割当車両、若しくは運輸省の規格に沿った新造車両を導入した当時の鉄道会社は、代わりに同数の車両を地方の私鉄に譲らなければならないとの条件が有りました。
当時の西武の堤康次郎社長はこれに反発して、割り当ての63系全てを未使用のまま運輸省に返却してしまいました。
代わって国鉄から戦災車両や古い木造車両を大量購入。
其れ等を西武所沢工場で整備の上投入して、戦後の利用者急増に対応していました。
旧101系に置き換えられたんでしたっけ?でも他の赤電も新101系に置き換えられてしまいましたね。
西武は戦前の国鉄型走行部品を長く使っていましたね。
阪和線に接する機会が多く、3歳児の頃は社型電車と映ったスナップがあります。72型の記憶としては窓の桟が多く、絵に描きにくく外から見るのは嫌いだったですね。でも室内はポールで回ることが出来、窓の開け方はバラエティが多くて楽しめました。おおむね半分が4ドア残りが3ドアの混成でした。
他の方も投稿していますが南海にも63系が居ましたよ
導入にあたってホームを削っています 南海では初めての4ドアだったので今日まで車体幅、ドアの数で影響が残っています
18:27
クモヤ90は郵便荷物車ではなく次のクモヤ440なんかと同じ牽引車。
画像の車両は後にクモハ63に復元されて名古屋のリニア鉄道館で展示中。
小学生の頃、他の小田急通勤車と外観が全く異なる1800形を見て違和感を持ちました。相鉄3050形も6000形にそっくりの外観なのに吊り掛け駆動と、後年それぞれの車両の出自を知り先人達の敗戦からの復興への熱意に敬意を抱くと共に戦争に負けるということはこういうことなのだなと思いました。
相鉄3000系はVVVF&冷房改造されて生き残りましたね。
旧6000全滅後も生き残りましたが、相模大塚の脱線事故で復旧されず廃車に。
いいねおねがいしました👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍
惜しいのは東武7800系か国鉄本家72系新造車とは従兄弟位の通勤電車だが
自分の世代だと小さい時は小田急旧5000形、5200形がギリギリ現役でした。もう小田急顔より3000形、現行4000形などそうでない顔の方が多数派でステンレス車も増えてきた時代…
特に戦後の物資のない時代に、なんとかかんとか材料等をかき集めて造った63系~72系は、戦前製の車両に交じって昭和40年代頃まであちこちの国鉄線等で走っていました。なので、不備な部分があったのも仕方ありませんでした。
もちろん釣り掛け車でしたが、私鉄などではカルダン車に改造されたものもあり、同じ車体なのに、音が違うなんていうものもありました。重量があって頑丈な車体ではありました。
クモユニ74やクモ二83等は本系列から改造され、車体と制御装置は一新されて、新性能車と協調運転ができました。
仙石線の72系アコモ改造車から103系化されたものには、八高線、川越線用以外にも、青梅線の車両不足補充用のものもありました。
クモ二83から改造された、宇野線のクモハ84もそうです。JRになってまで改造され続けました。
この系列の関連車両でVVVF化されたものもあったのには驚きです。
何かといろいろ改造されまくり、使いまわされたのが、この系列の最大の特徴だったのかもしれません。
72系から荷物列車になってさらに旅客に転換された宇野線の電車は荷物列車の動画でも取り扱いました。私が72系を見たのは京阪神緩行線で最後にはオレンジ色の片町線でした。
@@heitetsu4649 さん
私も、片町線のオレンジの72系には興味がありました。阪和線の方はスカイブルーでしたね。
どれもいろんなところが違っていて個性的でしたが、幾度も改造されてそうなっていったようです。
もともと、東京の中心に新型電車が投入されて、72系は徐々に東京郊外に押し出され、南武線や青梅線等で使われていました(茶色)が、そこから大阪近郊に転属していったものも多かったようです。
そこで終わると思いきや、さらに、可部線や富山港線、仙石線などに転属してゆき、最後はボロボロになるまで使われました。ここまで使われた車両も珍しかったような気がします。
なお、戦前製の車両も、最後は飯田線などで80系電車とともに老後を送っていました(’80年頃。)。私も乗りに行きましたが、釣り掛け音を響かせ、車内が木造ニス塗の車両には大感激でした。
自分の場合は確か中学生の1976年頃の冬休みに地元の国鉄南武線73系の登戸から小田急1800系の急行で埼玉へ転校した友達に会いに行くのに新宿から国鉄山手線103系→池袋から東武線の旧型車両乗り継いだ記憶ありますね。今思えば貴重な体験したと思います❗🤩
東武の7300形、長い間使われました。
寄居~池袋まで乗りましたが、非常に寒く、揺れた覚えがあります。
名鉄の3800形、長い間酷使しましたね。
京阪の1000形は、その生い立ちからして、明治から存在していますね。
川越線のは、よくお客さんをダマしましたね。
山陽700形の(2700ではない)鋼体更新車は、幼少時にカラーブックスで見ましたよ。3000系を先取りしたかのような不思議な斬新さを感じましたね。
鶴見線のそれは廃車疎開配置で橋本に留置された時期もあります。
63系は国鉄初の4ドア車
その構造は現代でも通用し、ホームドアもそれに合わせたものに
やはり東武7300系と7800系は神がかってカッコイイなぁ〜、あと他の会社の吊り掛け車両もカッコイイんだよなぁ〜
7300や7800も一度乗ってみたったです
ガキの頃浅草住んでたからほぼ毎日乗ってたよ
私鉄で最後まで吊り掛け駆動が残ったのは名鉄だしな
南海にも渡ったはずですが?
JR東日本初期車両である209系は62/63系
•72/73系電車の顔面設計を参考に衝撃吸収
を組み込んだ形状になっており、その結果
平妻顔が製造コスト削減と、事故損傷時に
スワッピング交換が可能になりました
因みに209系も横浜〜桜木町間で
パンタグラフが原因による故障がありました
冬の1800形は、暖かく良かったです。
東武7300系と7800系は、微妙にモーター音が違ったんだよなぁ…。懐かしい!!小〜中学1年まで、よく見られる光景だった。たま〜に乗ったけどね!!
あの床が、まさに木の板、カタカタ今にも止まりそうな扇風機等。今の電車には、ない雰囲気が堪らなかったよ!!
抵抗制御方式はパーツの互換性があるからその気になれば長く使えたのだろうね。今の半導体を多用した電車はそうはいかない。
いや、吊り掛け式とカルダン式は抵抗制御でも相当違うぞ。撓み板が吊り掛け式にはないけど、カルダン式は撓み板ありきで作らないといけない。だから車体以外の流用はほぼできない。
今回も興味深く、動画を拝見させて頂きました。
私奴と戦時設計の電車、63系(73系)の出会いは、「鶴見線」でした。 後日、交通博物館の図書室にて、史料を閲覧してこの車輌の来歴を知りました。
・・・ウチの方は、割り当てがなかったとのことです。矢張り、特殊軌間が問題だったのでしょうか?
あと南海でも国鉄63系の割り当てがあって、こちらは南海1501形となり、1968年まで活躍していました。
また、使われていたMT40モーターは、架線電圧昇圧対応改造工事の際に転用されて昇圧後も使用されるぐらい使い勝手がよかったようです。
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B5%B71501%E5%BD%A2%E9%9B%BB%E8%BB%8A
72系971の話で「テセウスの船」みたいな事が出るとは思わなかったw
ここまで正確に全て紹介
している動画があまりないので
素晴らしいと思います。
(間違ってはないんですが、
意外と説明不足の動画が多いので…
73系には大昔の客車のように
貫通扉が無かった訳では無く、
貫通扉はあったものの、手前開きで
人が押し掛けた事により
扉が開かず移動出来ない状況
になったと言うことです
なので桜木町事故以降の
製造車両はスライド式の横開きに
変わったと言う訳です)
山陽のやつ飾磨車庫に放置されてましたねえ
子供のころあの電車いったい何者なのか不思議だった
編集、お疲れ様です。
ただ、今回色々とデータミスがあるようです。
東武7800形製造、1961年まで。8000形製造、1963年より。名鉄3800形は63系とは関係なく、63系ベースで運用が困難だった3700形(初代)の代替も含め、戦後の車両不足対策の一環で63系車両の入線できない私鉄の車両向けに運輸省からの共通仕様だった「運輸省規格車両」の一種であり、18m2扉の車体でした。
相鉄3050形、国鉄103系3000番台共に、63系からの部品は車体の台枠程度でした。
かなり忙しい中で制作されたようですが、しっかりした情報を元に動画を作る平成鉄郎さんにしては珍しくミスが多いかなと感じましたので失礼かとおもいますが、指摘した次第です。
ありがとうございます。失礼いたしました。
確かに私も103-3000はさすがに無理があると思いました。名鉄の3800系は割当の名鉄の車両を読み解くと割当のように出ていました。もう少し読み解けばよかったですね。失礼いたしました
@@heitetsu4649 さん
いえいえ、資料が少なく、特定の情報に頼らざるを得ない時代の事は仕方ないと思います……
個人的にはこの戦後直後の「運輸省規格車両」を取り上げても面白いと思います。
関西の大手私鉄の車両でなかなか面白い車両が色々ありますね。
関西だけでも1本動画出来ると思います。
東武鉄道って、高性能車1720系デラックスロマンスカーを新製した(1960年)翌年に半鋼製吊りかけ車の7800系を新製しているところに、看板列車や地下鉄直通には思い切った挑戦をするが、自社線内用に関しては堅実性を重んじて、他社では既に廃れた技術に固執していたところですね。
63系の車両の一部には内部に紙が使われていたという話も・・・・・・
クモハ84の晩年は宇野線末端区間(茶屋町〜宇野)の線内運用で、朝晩のみ岡山まで乗り入れてましたね。😅
吊り掛け駆動の爆走が懐かしく感じます。
小田急デハ1801が群馬で保存されてますね。
拝見しました。
名鉄の63形割り当て車は『3700系』ですよ。
動画の『3800系』は 63形とは縁もゆかりもない全く別の電車です。
ネタにも『3700系』と書いといたんですが そこだけは惜しかったです。
あとは 寄居駅で並んだ秩鉄デハ800形と東武7300系は 全金属製の秩鉄よりも いかつい半鋼製車の東武の方が 実は車体は新しい事も入れるとより面白かったと思います。
全体的には 今回も良く出来ていましたね。
上手く形にしていただきありがとうございます🙇
名鉄の件は他の方からもご指摘があり概要欄にお詫びを出しております。とりりさんが小田急の63系が唯一地方譲渡とかかれていましたのでおかしいなあと思っていました。失礼いたしました。国電の丸い通気口がグローブ型ベンチレーターという名前初めて知りました。尼崎にいたころ夏103が来た時、あの丸っこいのだけは避けたかったので(クーラー車を狙っていました)明確に覚えています。
@@heitetsu4649 さん
あと モハ72 970で『低圧電源で車内蛍光灯が暗く』とありましたが ネタの『低圧電源』とは 動力用の高圧の1500Vに対しての制御機器や室内灯の為の100V用電源の事で電圧が低くて暗いという意味ではありません。
970は 低圧電源が直流電源(直流電動発電機)の為に蛍光灯が直流点灯の短い20Wしか使えなかったという意味です。
971以降はこの低圧電源が交流化(交流MG)されて40W蛍光灯の使用が可能となりました。
あと桜木町事件時の63形には『非常コック』も『貫通路』もあるにはありましたが イタズラ防止の為に設置箇所を明記していなかった事や 貫通扉が引き戸ではなく内開きの開き戸で 逃げようとする人達の圧で開けられなかった事(ついでに貫通幌もなかった)これらが被害を大きくしたと言われています。
動画の最後に出て来た交流牽引車クモヤ740の2は63形(モハ63 596)から編入されたモハ72 133の車体の両側に新しく造った運転台を後付けし 九州で 2008年まで活躍した 正真正銘車体も下回りもオリジナルの『ロクサン形』でした。
この次の動画が出来る迄に次の企画を纏めておきます。
@@heitetsu4649 愛知県のもので、昭和40年代から名鉄利用者ですが、「運輸省割当」と「運輸省規格型」を混同されています。前者がロクサンで名鉄で3700系を名乗り、後者が3800系になります。3800 系は名鉄のツリカケの旧型車AL車の中で大所帯になり、動画の解説通り富山地鉄、系列の豊鉄へ譲渡されたものもあれば、普通運転台の「ニセパノラマカー」と揶揄されたツリカケ冷房車7300系に更新されたものもあります。この系式もパノラマスーパー増備で豊鉄へ譲渡、廃車となりました。投稿でも余談だらけになりましたが、3700番台はロクサン転出後は、「大ドス」と言われた3300系(これも後に車体は豊鉄へ譲渡)をはじめとする車体更新車HL車の系式になりました。(3300 系、3700系は現在VVVFインバーター通勤車の系式)
戦時電車と言っても103-3000…72系970台の種車となった72系は戦時設計から脱却した時代のモノなのでちょっと違うかな…と思います
相鉄3000こそ化け物でしょうね
あれも10両中1両は無関係の新造車、それ以外も一部は63系出自ではない旧型国電が含まれていました
とはいえ台枠は廃車時まで流用されていたようなので(但し全車では無いようですが)63系のVVVF車と言う概念は正しいですね
2005年ってもうすぐ20年前になるんだよなぁ……
もう最近と言えない年代になっちゃってる……
俺にはまだ最近とは言えるよ2005なし生まれだしね
こっち(京阪)に戦前の電車(二代目1000系、昭和13年デビュー)がまず、上部を総替えして(700系)、
次に下部をカルダン化(三代目1000系)してまだ生き残ってるw廃車は近そうではあるけどね^^;
でも、63系も結局は資材不足だったからこそ、逆にまじめに設計したんだろうね。
あるもので何とかするのも我々日本人のお得意な部分だしね^^;
南海割り当て車が抜けていますよ。更に62系の一部は「旧63系」からの改造ですが、73系970番台は「72系」として新造されたものなので「63系」とは言えません。
茶色いアレ 昭和38年 1963年から青梅線 通学で使っていました。
床は木製で オイルワックス塗りで 雨の日には 滑った記憶も、、、
ドアとドアの間には 補強の為かパイプが立っていました。
満員電車では人混みで 押し潰されそうになったり、子供がいるから押すなよとか
当時のサラリーマンや大学生が 守ってくれました。
63系 だったのか? 72系 だったのか・・・ クモハ72 という 表記は覚えています。
立川から国立は オレンジ色の 101系? 友達は 青梅線を使っている通学組を
茶色のオンボロ電車! と からかっていました。
東福生~拝島 間は 八高線 キハ17 キハ20 は覚えています。煙草臭い車内でした。
非電化で まだ蒸気機関車も走っていました。
他のコメント 皆さん お詳しいですね。本からの 頭 知識なのでしょうが(失礼)
懐かしい動画ありがとうございます。
登録させて頂きました。 過去動画も見ますね!
ありがとうございます。昭和38年は72系の末期ですね。油ふきの床懐かしいですね。私は関西にいたので1970年頃京阪神緩行線でチョコレート色の72系によく乗りました。新型101系が中央線にデビューしたばかりですね。
東武伊勢崎線沿線で乗っていました。
床は木造で油が引いてあり、独特の色と臭いがしましたね… 皆『ボロ電』と呼んでいました。
冷房車導入後も結構な数が走っていて、夏は暑いし油の臭いも耐えられないので、3本見送り
冷房車に乗ることもありました。ボロ電が来るとガッカリしたものです😢
103系3000代、テセウスの船ならぬテセウスの電車で草
東武鉄道株式会社7800系は164両製造されましたが、踏切事故の為に7808ー808の2両が廃車解体されましたので実際に新5000系に更新されたのは162両でした。
「鉄道ピクトリアル」誌の初期の掲載記事を再録している、「アーカーブセレクション37 63・73形電車の時代1950〜1970」のなかには、桜木町事件に関しての記事の再録が何点か収録されています。
なかでも、たまたま事故車両に乗り合わせていて運良く助かった中国人船長の話が図解入りで載っていて、事故直前の車内の様子の見取り図や、同じ車両の運転室側にG.I.が何人か乗っていて最初に感電して倒れた話、乗客の叫び声が一切聞こえなかったことや、溶接のときの激しい熱風のようなものが襲ってきた話、この方は運転室から2枚めの山側のドア辺りにおられたそうで、反対側の窓から逃げたとか、事故当時の車内の生々しい様子が載っていますよ。ご参考に。
ありがとうございます。あの状況で生き残ったらすごく運が良かったですね。絶縁が全く施されていないので架線が引っかかると誰か感電される人がいるのですがやっぱりそうですね。非常用ドアコックを取り付けて非常時に出られたことが三河島事故につながるとはなんともやるせないですね
@@heitetsu4649 さま。火災で窓が破損したのが災いしたんでしょうね。それでも頭から落下して5・6分は動けなかったそうです。その後しばらくは黒い痰が出て、左顔面やけどの他につり革を持たれていた左手のやけどがひどくて入院生活が7週間に及び、手の方は大腿部からの皮膚移植をうけて完治して帰国されるまでに、4月の事故から6月中旬ごろまでかかったそうですよ。
それから、話の中に「頭の上からガス溶接の炎を吹き付けられたような」というのと「非常に刺激のある形容のできない臭気のある煙」というのがあって、これが非常に気になります。
滋賀県のローカル線こと近江鉄道の「220系」は、西武鉄道の旧性能電車を大改造した車両ですが令和の今でも現役です(機関車用途として1編成のみ)。
埼京線が開業して川越以北の103.3000番代に乗った事が有るが車両は独特でした。仙石線時代に乗ってみたかったです。
103の顔してつりかけ式の音だす。乗りたかったですね
103系3000番台にはちょうど埼京線開業&川越線電化の時期に通学の為に使っていた。確かに車体は新しいが台枠がお古のままだったので、乗降時に若干腰高感があった。(気になるレベルではなかったけれど)
戦時車両で最も有名なのはD52かな?御殿場線の山北駅にまだ有ります。でも機関車最強だった。東海道はそもそも国府津と沼津を結んでいて、熱海は通っていなかった。丹那トンネルが作れなかったから。
朝ラッシュの小田急1800形8両(2両×4)
がありました。
部品だけなら近江も。
まだ緩かった頃、
工場に行くと『昭和15年大宮工場』なんて書いてある部品が、、、
転がってるどころか堂々使ってたり。
後半映った103系模型の行先表示がいかにもやっつけで草
ははは、模型はどうも苦手な領域ですね。やっつけです。プリンターで印字したものをそのまま貼り付けました。
これなんで13:30の国鉄のところから声とキャラが変わるのですか??
めちゃ面白いです
初めて投稿させて貰います。
関東と関西を比較するならば、相鉄に対する鉄道会社は、神戸電鉄❗と申し上げられてますが、寧ろ、山陽電鉄?かなぁ、と私は思えて成らない‼️。
何故ならば、山陽~阪神直通は、関東ならば、今回のダイヤガラスより登場した東急~相鉄しいては、地下鉄🚇を介して、東武等、まあ、阪神は確かに、京急に似ていますが。
かつては、山陽~阪急も有りましたね。
今は、阪急三宮→阪急神戸三宮かな⁉️。
関東、関西を比較するのは、鉄道ファンとしては非常に魅力的です。
しかし、あくまでも地理的に正反対の場所なので、類似しているのはある意味、不思議ですよね🎵。
大概は、相違してて当たり前何ですがね。😮
ハート❤️マーク!✌️、感謝します。
確かに、関西と関東の私鉄は、血管の如く、張り巡らされているので、
類似は意外と、自然?、まあ、人工的何であれですが、可笑しくはないのかもデスね。
最終的には、鉄道会社の方々は資金は掛かりますが、鉄道利用者のメリットに成る事が嬉しい😃⤴️デスね🎵。
追伸しますが、東海地方も私鉄→名鉄、近鉄、は少ないが、名鉄がかなりの路線を張り巡らしていて、確か、私鉄では近鉄に次ぐ路線距離を有し、方や関東の東武よりも有るのではないでしたかな?⁉️。
東海地方も魅力的ではありますな🎵。
まあ、東海地方はJRが少なすぎ❗かなぁ⁉️。
関東、関西はJRも血管程ではないにせよ、多いですよね🎵。
いずれにせよ、鉄道利用者並びにファンとしては、直通運転は非常に有難い‼️のは、事実デスね🎵。
山陽700形の廃棄された車体は、東二見車庫の倉庫として長い間つかわれていました。旧車体も更新車体もです。白色の強いライトグリーン系の工場のトタン壁みたいな色に塗られてましたよ。
むかし見学会に行ったときに、たくさんあったので写真に収めて帰ってきました。
東二見駅は興味がありましたがなかなか行けませんでした。阪神大石駅によく用事で行った時、東二見行きの普通が時々止まっていました。ほとんどは姫路行き特急です。車庫なら戦時中の電車の宝庫ですね
63系でも72系でもええわ(^^)。私も幼少時から高校生くらい迄、国鉄でも山陽電鉄でも乗りました。ノスタルジーは感じないですね。とにかくボロかった。この電車が来ると、ガッカリしたもんです。特に須磨浦公園以東は阪急、阪神のピカピカで涼しいエアコン装備が入線してましたからね。旧国鉄(省線)は開けにくい3段の窓ですよ。エアコンも無く、窓を全開にするには、コツがあった(爆笑)。私はこの時に4扉20m車が嫌いになりました(笑)。
昭和48年の秋ダイヤ改正でしたか、近鉄橿原線を中心に余生を送っていた600系終焉…でもなかった~てか、騙された~(笑)
そもそも近鉄600とは戦前戦中の大軌奈良線木造車両を外盤を鉄板(嘘でしょ?)ってくらいに木造車両濃厚な車両でしたが内緒の話し、中間運転台に入っていた1両だけが、出発合図や次駅停車合図等に今でも使われている所謂「チンベル」が小学生の私でも操作出来、通常は停車合図を行わないのを知っていた私は有ろう事か運転手に次駅停車の合図、月日としては当該車両に遭遇する事態が珍しく、でも2度ばかり運転手に次駅停車合図を送り帰って来た時の嬉しさ、最高…と言いたい処ですが、当時は今の8400系同様に西大寺車庫から田原本線運用の400系の一部が「西大寺⇔西田原本」で不定期運用ながら何とあの田原本連絡線を乗車出来る以上に、何と400系は2両+2両の4連で、運次第ですが中間乗務員室に入れライトの点灯…加えて、車掌殿に見付かり退室を強制された際にタイフォンのペダルを踏んでしまい、現在でも奈良線8800径以前の「ポワ~ン」を鳴らしてしまった事、鉄オタとしては許されない行為でしたが何分、未だ善悪が判断出来なかった年代でしたので、ご容赦賜りたく存じますm(_ _)m
長々とコメントしていると当チャンネルの「カレチ」から削除され兼ねませんので、この事は「ご内密」でお願い致します(爆)
あっ、600系終焉の件、まだ書いてませんでしたが、主電動機等をほぼ当時の8400系車体に乗せたのが「920系」です。平成を迎える直前に10100系旧ビスタカーの主電動機に換装、冷房化も同時に図られ先頭の行き先表示器と電連も新設され奈良線系統からは一部の臨時を除き「行き先表示板」が廃止された瞬間だった様な記憶が有りますが、直後に1010系に改番され全て伊勢中川のデルタ線で方転されて、名古屋線所属へとなりました。
な~んとなく本題に似てませんか?
内緒のついでなのですが、奈良線の「奈良⇔上本町(難波)」で西大寺⇔鶴橋がノンストップの無料特許で結ばれていた時、鹿のヘッドマークと言うかサボ的に扱われているヘッドサイン、私の3年下の卒業生の家の押し入れに何枚か「上本町⇔奈良」のヘッドサインが今も眠っています~
酔っ払って上本町の表示板入れから勝手に…それも従犯やないか~い!!
南海1501形が抜けてますよ
ついでに、九州の三井三池炭鉱が社員輸送用に自社製造した63形似の客車もありましたね。
関西地区から上京して東武東上線沿線に居住。上品な阪急6000系6300系から古武士然の東武7800系に唖然😲😲
どちらもアルナ(ナニワ)工機製や。
未だに旧型電車みたいな塗装ですからね
小生、中学時代🙄陸上部でした
社会人になり市民運動会で(コロナ前の15年位前)100M 全力疾走で
足パンパンで2〜3日ビッコで歩いてました🤣
🐶チーズ「毎日の積み重ねと年齢を考えるでやんすぅ〜」
@@psychedelicraspberry517 送信先間違えました🙇
次は京急ネタを企画しています。
もう出来上がってはいますが その前にひとつ閃いたので書き記しておきます。
『港町横浜と神戸 鉄道の共通点もいっぱい』
東の横浜 西の神戸
どちらも港町で東京や大阪とはまた違うおしゃれな街 中華街や異人館といった異国情緒も味わえ プロサッカーリーグ(かつてはプロ野球も)の本拠地でもあり 街が舞台のご当地ソングもある両市は実は鉄道の共通点も多い。
①鉄道開通が ほぼ同じ時期
横浜 1872年 日本初
神戸 1874年 日本で2番目
しかもどちらも『東海道本線』
②かつては埠頭への貨物線があった
横浜 山下埠頭線
神戸 神戸臨港線 兵庫臨港線
③JRに 工場地帯への通勤路線があり 日中は極端に列車本数が少ないか全く来ない。
横浜 鶴見線(安善駅から先は川崎市だが)
神戸 和田岬線
④車両メーカーがある
横浜 総合車両製作所
神戸 川崎重工業
⑤かつてはスカイブルーの103系が 2つ隣の県(府)から各駅停車で来ていた
⑥JRのライバル私鉄が複数あり 片方は海沿いの下町を高速で突っ走り もう片方はブランドイメージのある路線
横浜 京急&東横線(一応田園都市線も)
神戸 阪神本線&阪急神戸線
⑦かつては市電があった
⑧今は地下鉄がある
⑨新交通システムもある
⑩市内に新幹線駅があり 今ではすべての列車が停まるようになった
⑩①名物駅弁がある
横浜 崎陽軒のシウマイ弁当
神戸 ひっぱりだこ飯を始めとする淡路屋さんのお弁当
⑩②『〇〇町駅』『〇〇台駅』や『公園』の付く駅と駅名にカタカナが入る駅が多い
市域が広く 新路線・新駅開業が多いからこそ。そしてどちらにも『大倉山駅』がある。
⑩③商業施設併設の私鉄駅がある
横浜 相鉄ジョイナス
神戸 阪神神戸三宮駅ビル(かつては阪急三ノ宮駅ビルも)
他にも昔だったら
市内から『準大手私鉄』が出ていた。
というのもありますね。
神戸のあれこれに関しては 関西ご出身の鐵郎さんの方がお詳しいと思いますので 今回は大まかな項目だけ記しました。
これまた一般ウケはしなくても 常連さんには喜んでいただけると思います。
了解致しました。ありがとうございます。作ってみます。
2件別の視聴者様のリクエストがあるので3件目に制作いたします。戦時車両ヒットしてなりよりです。ありがとうございました
@@heitetsu4649 さん
あとひとつ忘れてました😳❗
どちらも街の名の付いた路線がある。
JR横浜線 阪急神戸線(愛称ならJR神戸線も)
よろしくお願い致します🙇
しかし こんなに観てもらえるとは私も思いませんでした。
何が当たるのか本当にわからんものですが 有り難いですね。
上手く纏められた 賜物でしょう。
ありがとうございます。よかったです
@@heitetsu4649 さん
まだあった。
『ロープウェイ』がある
やっぱこう考えると国鉄は車体更新車をほぼ作らず、115系・103系で72系の大半を置き換えてしまおうと考えたんでしょうね。カルダン駆動が優秀な事は、東海道新幹線0系新幹線車両で証明済みだったので、今更吊り掛け式を延命したところで何にもならないことを知ってて、これならカルダン駆動車を作った方が早いという事でカルダン車を大量製造し吊り掛け車は淘汰の道に進んで行ったのでしょう。
相鉄3000系は脱線事故起きなければE231系ベースの10000系に置き換わる感じだっただろうな…
2002年登場だからあと4年…
名古屋鉄道館→リニア鉄道館
ちなみに、火災発生の原因は高圧電流が直接車体に流れたためで、絶縁に不備があったわけではない
当時の規格では十分条件を満たす程度の対策はされていたが、この前年に発生した80系電車試験車両の火災事故を見れば、原因は可燃性の塗料の使用にあったことが分かりますな
先頭車運転室辺りの握り棒あたりにいた客が急に倒れたという乗客の話がありますね。ショート音以外に人の叫び声等も聞こえなかったという話も(電気車の科学1951年8月号)
遠距離にあるき電設備の高速度遮断器の動作が遅れたのも原因の一つと記録されていますね(電気車の科学1951年6月号)
名鉄新旧3500系が揃うっていう自体がおきたw
17:14 「まるで妖怪人間が人間に…」の比喩は草。。。
平成鐵郎様
コメントご無沙汰してます。
個人的事情により3月頃までコメント出来ない(というか動画自体見に来れない)かもしれません(たまに単発的にコメントするかも)
忘れてはいませんのでよろしくです
ご無沙汰しております。承知いたしました。ご連絡いただきありがとうございます。ご機会があればぜひ、お願いいたします
103系ですね
63系の一部には内装に紙が使われていたという話も・・・・・・
昭和50年代の車両はまだまだ現役もあり、長寿になると言う感じがする。地元の地下鉄もs56開業時からの車両がまだ走ってる。あとから来た国鉄103-1500の方が先にお役御免になりました
何でもかんでもカバーかけてる現在の車両に見慣れると剥き出しカバー無しの戦時車両がお洒落に見えて逆に新鮮で良い。令和の63系を作ろうよ。
可部線や福塩線のは、違ったのかなあ。😅
72系なのでそうですよ。72系の最初に写っている黄緑の電車は可部線の横川駅です
@@heitetsu4649 片町線や阪和線、大糸線も、そうだったきがします。懐かしいですね。^^;
西武と相鉄はわざわざ新製もしたね。
面白すぎ
鉄道ビジネスカジュアル最高